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zoom RSS 2016/11/28 ウォルト・ディズニーの心理学研究メモ

<<   作成日時 : 2016/12/05 13:20   >>

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 メイン の話としては今は亡きウォルト・ディズニーの脳内で起きているシナプスの動き、年を経るに連れての変化を観測することを目標としている。しかし本人がいないのと、いたとしてもシナプスの観測を生きている間にするのは倫理的にも難しいということでまずは彼に対する周りの人間の印象から解きほどいていく。
 今回は映画に存在する敵の存在を主軸に考えてみよう。

仮説 :ウォルト・ディズニーの敵(以降「ヴィランズ」とする)は彼の中の不安を具現化したものである

 発想 に至った経緯だが宮崎駿のドキュメンタリーにて彼がドワンゴの披露した遺伝的アルゴリズムを使用した技術(の結果)に対して、「生命に対する侮辱」と叱責したことに由来する。自分が彼のこの行動に感じた疑問は「自分が関わって進めていくプロジェクトでもなく、またストーリーとして利用するかもわからない部分の時点でなぜ抑圧することができるのか」と感じたからである。少なからずそれは彼の原則には当てはまらないものだったのであろう。しかしながら映画のプロセスであるストーリーの部分でもなく、数をこなして結果を出す研究分野でこの点に関しては宮崎駿は部外者なのである。しかしながら持論を形にしたことで悪がドワンゴ会長に向いたわけである。自分は身体的ではないが精神的に彼の言う障害者の内部にいるのであろう。しかしながらそれを弱者として保護されるのは命の尊厳というでもなく宮崎駿のエゴなのではないかとも感じるわけである。
 まず 〈普通の生活〉とは何かを定義づけよう。文明、文化の中において”違うもの”とは大まかには”少数派”なのである。細かく差異が個体によって必ず存在する人間においてカテゴリーを分けるのである。『四肢がある』『相手に話を合わせられる』『話を理解出来る』など、ある観測範囲において少し違う。そしてその少し違うことがない。これを今回の〈普通の生活〉とする。もちろん場面が変われば定義は変わるので今回にのみ適用していく。「普通の生活を不自由なく送りたい」という願望には二通りの解決がある。「少数派である部分を補って”普通の生活”まで押し上げる」のと「少数派であることを認め、それを”普通の生活”とする」方法である。この見方には当事者か第三者かでまた違ってくるのでどれが良くて悪いという話ではないと記しておく。
 では宮崎駿の発言を見ると知り合いの(身体)障害者を引き合いに出している。ハイタッチもできないくらいの人と、遺伝的アルゴリズムで作られたものとを重ね合わせた。そして宮崎駿の中では「足が二本で」「直立して歩かせない」のは「生命の侮辱である」としているのである。私に言わせれば生命というものはシナプス、ニューロンによって構成され、その構造が声となって耳に入りまた別の個体が電気信号によって定着した”概念”である。しかしながらその場に存在し代謝しながらも固定された物質としての命は守るべきものと理解している。ないがしろにしてもいいなど微塵も感じてはいないがそれはむしろ当たり前、多数派なのである。そこで少しそれて命とは何かを実物でではなくデジタル内で創造したところでそれを「生命への侮辱」と取るのは過剰なのではないかと考え、では彼の作品の中にその忌避がどう反映されているかというのにまず思いついたのが、作品内での完全なる対立する存在。悪役なのである。
 私のTwitterタイムラインではディズニーに興味があるフォロワーを多くしているが、同様にジブリ作品、宮崎駿監督作品にも多く興味を持つ人が多い。そんな中私はディズニー一筋と言わんばかりにジブリ作品は受け身でのみ観測していて、なんとなくとなりのトトロが印象強いといったところである。なので宮崎駿監督作品がどれかも、イメージで浮かぶ悪役といったものもわからなかったので簡単に調査した。

画像


すると見えてきたのがジブリを設立して以来、完全なる悪役の存在がほとんど消えているのだ。ちなみに完全なる悪役とは自分の欲望、願望のためにはどんな手段も取り自分優位でしかないキャラクターを指す。では確認すると「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」「ルパン三世 カリオストロの城」の三作品のみにそれが適用されたのだ。限りなくこれは少なく、また「天空の城ラピュタ」は設立以降の公開であるが、構想をそんなに簡単に作れるわけもなく実質ジブリ前と考えていいだろう。すると、ジブリ設立を転機にその悪役がいなくなるのである。
 これが何を表すか。自分の中で必死にかき集めたところ今回の仮説につながるのである。もし宮崎駿がジブリ設立と同時に手応えを感じたことにより、意識下において具体的な不安が消え去った≒作品に完全なる悪役が登場しなくなったと考えると、それはウォルト・ディズニーの場合どうなのだろう。こう言う疑問が湧いてきたのである。

 ちなみにここからは心理学から考えて行こうと考えているが、ちょっとした知識しか持たずまたピンポイントなもので論文を探す方法を学ぶところからのスタートなのでなかなか難しく進んでいない。最終的にはこの作品のヴィランズになるにはウォルトのこの不安を形になり……という終わりにしたいのだが、まず持って答えがあるわけでもないので長い旅になるのは明白である。しかしながら自分には新しい視点であったので、これも含めてウォルト・ディズニーの方程式を固めていく。

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